きしもとタロー Kishimoto,Taro

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きしもとタロー Kishimoto,Taro

略歴 profile

 

 

幼い頃から音楽文化に関心を持ち、12歳の時に南米音楽のレコードの写真をもとにして、竹を切り笛を作り始めた。それ以来、世界各地の音楽文化に関心を拡げ、深く共鳴する音楽や楽器にのめり込むようになった。  

中学・高校はブラスバンドでトロンボーンを演奏していたが、一方で国立民族学博物館の資料やラジオ放送などを通し世界全域の音楽を聴くようになり、自製作した南米の縦笛Quenaを用いて、様々な旋律を演奏するようになった。
 
20代で演奏活動を始めた当初は、最も慣れ親しんだ南米音楽を中心に演奏していたが、南米を旅した際に商業音楽の在り方と地域的音楽文化の乖離を直視、その後は演奏活動を「作曲作品を中心に演奏する活動」と「現地音楽の研究や習得・それらの紹介の活動」に分けて行うようになった。

20代中頃は、作曲作品の演奏活動の傍ら、古楽楽団との共演、楽器開発を含めた楽団での活動も行う。

20代後半になると、Irish FluteTin Whistleといった笛を通して、ケルト文化圏の音楽(特にアイルランド音楽)に取り組むようになり、ステージでも頻繁に演奏するようになった。
30代に入るとチベットの弦楽器Dramnyenにも取り組み、歌を入れたオリジナル作品や日本を含む各地の音楽をとり上げるユニットでも活動するようになった。

この間15年近く自分の録音物を作らないまま活動を続けていたが、30代中頃にそれまでの作曲作品を録音しようと思い立ち、「ハルノヒ」「ホシノウエデ」「ヒライタ、ヒライタ」3つのアルバムを制作。30代後半には、10代の頃より関心を持っていた東欧音楽に取り組み始め、ギリシャの弦楽器Bouzoukiを入手して熊澤洋子ユニットに弦楽器で参加するようになる。

40代に入ると演奏家として人前に立つ機会を減らし、暮らしや思索・執筆に注力するようになった。エッセイとアルバムが一体化した作品「空のささやき、鳥のうた」を完成させた40代中頃からは、Caval(Kaval)TilincaFluierFujaraといった、中欧・東欧の羊飼いの笛に本格的に取り組み始める。また、大阪大学で(文化や意識に関する実践的授業で)講師も務めるようになり、40代後半からは、各地での講演も積極的に引き受けるようになった。映像作家・音楽家の高木正勝氏のツアーに参加したり、現在住んでいる京北・山國に移住して山村生活を始めたのもこの頃である。

50代に入ると、突如(20代の頃に出会っていた)アルメニア音楽に、改めて心惹かれるようになり、Shviという笛を自製作し演奏するようになる。その後アルメニアに渡りBlulという笛を入手、これまで本格的にチャレンジすることのなかった、斜めに構えるタイプの笛に取り組むようになった。

 
現在、国内での演奏活動は「南米音楽の演奏」「アイルランドなどケルト系音楽の演奏」「東欧音楽の演奏」「作曲作品の演奏」「それらを織り交ぜた演奏」…と様々なスタイルで続けている。

海外での演奏活動は、2000年のオーストリア公演、2003年のウズベキスタン・サマルカンドにおける東洋音楽祭への招聘、2013年スロバキアでの国際詩祭への招聘、2018年スペイン・アルテアでの音楽祭への招聘、ルーマニア・トランシルヴァニア各地での公演など。

講演は、音楽にとどまらず、文化や意識などをテーマにした幅広い内容のレクチャーを大学で行なっている他、各地で講演や対話企画を続けている。

 
きしもとタローより 皆さんへ
アルメニア、草原上のストーンサークルにて

 

皆さん、こんにちは。きしもとタローです。
プロフィールって、仕事の経歴やアピールがほとんどですよね。それだと、実際の人物像はかえって浮かび上がってこないことも多いのではないでしょうか。

僕はップページで普段の活動概略を・プロフィールで略歴を載せておりますから、ここからは通常のプロフィールではわざわざ載せないような「今の活動につながる歩み」を記しておきます。短くまとめた文章でもありませんから、ご興味のある方・お時間のある方のみ、どうぞ。

①小学校時代

僕は神戸の街で生まれ、その後(当時はまだ)農村の風景が残っていた北区の田舎で幼少期を過ごしました。もともと気管支が弱く、喘息で学校も休みがちであった僕は、小学生の頃から死について日常的に考えているような子供でした。結核患者を収容する隔離病棟だった施設(通称・喘息学校)に、教師の薦めによって収容されかけたこともあります。

大多数の人間と異なる状態にあれば、区別・選別され、良かれとして施設に収容されかねない世の中なのだ、と子供ながらに理解しました。

しかしこの喘息は、僕にとって禅問答のように多くの示唆を投げかけてくるものでもありました。僕たちは空気に取り囲まれて生きていながら、空気を意識して過ごすことはほとんどありません。しかしその空気が自分の中に入らなくなった途端、肉体は機能を止めてしまう訳ですから…空気からの断絶は、そのまま死を意味します。目に見えない空気は僕にとって、大きな謎であり神秘そのもの、そして空気がないと成り立たない自分の肉体がなぜそれを拒否しているのか、それは自分にとって大きな謎かけでした。

そんなこともあってか、性格的には落ち着きのない陽気な子供だったにも関わらず、僕には集団生活や学校生活をどこか外側から眺めるような癖がありました。日頃楽しく振る舞ってはいても、心の底から学友たちには馴染めず、むしろ人間の「群」に対して、いつも不可解な印象を抱きながら暮らしていたように思います。

自分と同じ年の子供たちに囲まれて暮らしているはずなのに、どこか常に独りでいるような感覚。他者の姿は目に見えていても、その心までは見えず…人との関りから断絶されて生きていける訳でもない自分が、なぜそこに馴染めずにいるのか。自分を取り囲んでいる他者・社会というものは、空気と同じく、僕にとっては大きな謎かけでした。

歳を重ねるごとに、自分の中にある価値観や優先順位が周囲の学友たちと少しづつ異なっていることを知り、感じるままに話したり行動したりすることの難しさに直面していったのが、僕の小学校時代だったとも言えます。

象徴的な思い出を少し挙げると、小学校の通知簿に「タロウ君は皆が休み時間に運動場で仲良く球技している時に、一人ジャングルジムの上に座ってボーッとしているようなことがよくあり、協調性に欠けています」と書かれたことがあります。

ジャングルジムの上は気持ちいいし、天気が良い日は尚更です。それに僕は運動場で遊んでる子供たちを眺めながら色々と考えごとをするのが好きで、自分としては楽しく自由に過ごしていただけなんですが、そういう僕の様子を教師がどこかからかチェックしていて、まるで僕のことを「協調性のない自閉気味の子供」のように思い込んでいたことに、当時とても驚かされました。
 
他者に理解されない・同意されない行動は、無意味な行動・不適格な行動と捉えられる場合がある、と思い知りました。

また小学校4年生の時のこと、一つの質問に対する答えの選択肢が二つ提示され、それらを選んだ上でクラスでグループに分かれ、互いにディスカッションをするという授業がありました。答の一つは、明らかに矛盾した答としてわざと提示されたようなものでしたが…優等生の女の子や番長格の子がその答を選んだことによって、僕以外のクラスの全員がその意見の方についてしまったのです。

しかしその答は明らかにおかしいから、僕は別の答えを選び、その理由と皆が選んだ答の矛盾点を指摘したのですが…優等生や番長格を中心に取り巻き数人がそれに対して次第にヒートアップし、それにクラスの皆が我も我もと同調していって、最後には皆がヒステリーのようになって席から立ち上がり、口々に僕について罵倒し始め、クラスは大混乱になってしまったのです。

教師は大人だから(というより、この騒ぎの発端だから)ちゃんと答の解説をした上で、当然この騒ぎを収めてくれるだろうと期待していたら、何と慌てた教師は「もうやめて!いいですか…つまり、皆が正しいの!」という一言でまとめて授業を終えてしまったのです。

人がどのようにして同調し、集団化するのか、その際どんな状態になりやすいのかを目の当たりにした経験であり、そして人がみな、真実を知りたいと思っている訳ではないということ、大人や先生と呼ばれる人々も子供と大して違わないということ、故に大人や教師に期待や依存をしてはいけないということを学んだ、貴重な経験になりました。

小学校5年生6年生の頃は、小学校を卒業することしか考えていなかったように思います。この頃になると、僕が描いた絵や作ったものは、次の日には大概壊されていたし、持ち物が無くなることも多かったのです。教師が僕を褒めるようなことがあったり、何か注目を浴びるようなことがあれば、必ずそういうことが起こっていました。

一度首謀者の学友を一対一で問い詰めたことがあります。集団の時には平気で暴力的になるくせに、一人だと何もせず彼は何と僕の前から逃げました。ところが後日、集団になるとまた同じようなことをしてくる訳です。クラスの人々は同調するか見て見ぬふりをするかだったので、僕は次第に、ここにいる人々とは関わり続ける必要はないと考えるようになりました。今の時代だったら、小学校は4年生まで…5年生6年生は確実に不登校になっていたと思います。

ところが小学校卒業後、僕はどういう訳か、自分にとって全く理解不能だったそういう学友たちの行動について、逆に関心を持つようになりました。子供なりに、そこに何か重要な社会のカラクリやヒミツがあるような気がしていたからです。

この頃の僕は絵を描くのがとても好きで、将来は絵描きか漫画家になろうと考えていました。一方で度々医者にかかっていたためか、医療・医術に対する関心も強かったように思います。そして日頃から「なぜ?」をため込んで、長時間独りで考えていることが多かったからでしょう、いつも雲水や修道士のような修行僧に憧れていました。僕にとって小学校生活は毎日が謎かけで、修行のようなものに思えていたからなのかも知れません。

さて、この頃の僕ももちろん音楽が大好きでしたが、僕が住んでいた地域は当時「男が音楽するなんて」というような古い感覚の人々がまだ大勢いたため、小学校で音楽クラブに入部希望を出しても「女の子しかいないからダメ」と却下されるような状況でした。いきなりジェンダー問題が立ちはだかっていた訳ですね。男ばかりだった野球部には、当時女の子も入れるようになっていたのですが…。

両親も音楽経験はありませんでしたし、楽器を習いに行けるような家庭環境でもなく、またそれほど裕福でもなかったので、音楽は僕にとってずっと「遠いところにあるもの」でした。音楽会のような催しの時だけ、楽器に触ることが許される…そんな状況であったにも関わらず、小学校を卒業する頃になると「将来は作曲家になって、音楽をたくさんつくる」と言っていたのですから、不思議なものです。

大きな変化があったのは12歳の時。フォーク好きだった父が加藤登紀子さんの歌を気に入り、彼女が歌っていた「灰色の瞳」という曲の原曲のレコード(南米の笛演奏家ウニャ・ラモスのレコード)を買ってきて、家の棚に置いていたのです。僕はそのレコードを見つけて自分で聴き始め、それから無性にその笛を自分でも吹いてみたいと思うようになりました。

しかし当時はインターネットもなく、周囲にはそのような音楽に関する知識を持った大人はいません。笛の音楽に目覚めた僕は、ラジオで片っ端から笛の音楽を探して聞くようになり、中でも琴古流尺八の「鹿の遠音」という曲を気に入って、テープに録音したものを毎朝かけて聴くようになっていました。

そんなある日、百貨店で邦楽器屋に入った僕は、店のお姉さんに念願の尺八を触らせてもらい、その響きに感動して「やってみたい」と大興奮、しかし邦楽器というものは大概高価なものでしたから、母は「竹ならその辺に生えてるんだから、自分で作ればいいやないの!」と僕の望みを一蹴…仕方なく覚悟を決めた僕は、近所の山や河川敷で竹を切り自分で笛を作り始めました。

その体験を通し、僕は「その気になったら本当は全てのものを作り出せるのではないか」と考えるようになり、文化をできるだけ原初の状態から体験したい、何もない状態からでもアレコレ創り出せる人間になりたいと願うようになりました。

興味は次第に原始人の生活への関心につながっていき、人類史を遡って原初の楽器やその意味、アニミズムやシャーマニズム、世界中の宗教や哲学、神話・伝承などに関心が拡がっていきました。つまり独学で楽器を作り始めた経験は、幼少の頃の僕に大きな意識変革をもたらしたのです。

シュリーマンの本を読んだり、世界各地の遺跡の本を読んだり、古代文字を自分で写して自分で文字を作ったりしていたのはこの頃ですね。

とは言え、インターネットがない当時、幾ら情報を求めても個々の情報は少なく「子供の知りたい欲求」が満たされることはほぼありません。そこで僕は類似性のある情報やその周辺情報・関連情報を、(図書館や民族学博物館の資料、小泉文夫氏の記録音源、またラジオなどを通じて)片っ端からかき集めるようになり、気が付けば10代のうちに世界全域の音楽を聴くようになっていました。つまり一つ一つの情報が少なかったが故に、僕は広い範囲の音楽に関心を持つことになった訳です。

そんな経験があるため、今でも僕にとっては世界の様々な地域の音楽は懐メロのような感覚で聞こえていることが多く、周囲の方々が「珍しさ」を感じている横で、郷愁のような懐かしさを感じていることが度々あります。

②中・高・大学時代

さて、既に自分で楽器を作って鳴らし始めていた僕ですが、ある時「男子校に入れば誰にも文句を言われず楽器が触れるようになるのでは」と気付き、受験して男子校に進むことを決意しました。もちろん、新しい人間関係の中に入って行きたい、自分の居場所を見つけたいと思っていたこともありますが。

晴れて地元の男子校に入学し、そこでブラスバンドに入って(先輩部員から無理やり勧められた)トロンボーンを演奏することになったのですが…当時の男子校・ブラスバンドは軍国主義時代の名残が残ったような所で、体罰ビンタは当たり前、毎日が理不尽や理解不能の連続、僕は期せずして前時代的思想傾向について大いに学び経験することになりました。

一方でこの頃の僕は興味が拡散し、音楽だけでなく古武道や中国武術・仙道などに関心を抱き、そこから東洋思想に傾倒し、新旧様々な世界各地の思想や宗教へ関心を深めるようになっていました。また高校生の時に友人たちと映画製作研究会を立ち上げ、8ミリ映画を撮り始めたことで、将来は映画を作りたいと考えるようになっていました。

そして小中高を通じてずっと学校というシステムに疑問を持ってきたからでしょうか…僕は高校を卒業したら、とにかく一度既存社会から自分を切り離したい、と考えるようになり、社会における帰属・所属だけでなく、自分に付けられた名前まで全てを一度解除したいと思い始めていました。

云わば「ただ一個体として、そこに在る」という状態を「どこへも行かずして、今いる空間で体得できる」状態になってみたかった訳ですが、それは雲水のような修行僧や、社会の境界に住まう者たちに、小学生の頃から憧れていたからでもあり、その一方で「誰もがヒマラヤに行けば悟ったような気になる」という言葉を一つの戒めとしていたからです。

どこかへ行けば、誰かに会えば、「何かになれたような気分」になれるかもしれないけれど、それはそんな気になっているだけかも知れない。まことそうなれる状態に自分がなり得ているなら、そこで今そうなれるはず…そんな感覚でしょうか。本当はどこに行く必要もないのかも知れない。

とは言え、まだ世間とのバランスをうまくとれる訳でもありません。学校や両親の手前、仕方なくフリだけのような受験をした僕は、高校卒業後待ち望んでいた「宙ぶらりん」生活に突入しました。興味のある本ばかり読んだり、昼間・夜中の別なくあちこちを徘徊したり、時々アルバイトに行ったり。一言で言うと「フラついていた」訳です。

この頃の僕は、16歳か17歳の時に突如脳裏に湧き上がってきた、「生命エネルギーの同調・共鳴」「エネルギーの反転」という白昼夢的なビジョンに心を奪われており、そのビジョンを物語にしていつか映画化しようと考え、日々妄想をエスカレートさせていました。

やがてそのビジョンは常軌を逸して膨らみ続け、物語はあまりにも壮大なものになってしまったため、僕は自身の知識不足・勉強不足・無力さ加減を逆に痛感することになり、(自分でも予期していなかったことですが)宙ぶらりん生活のさなかに見識を深めるべく大学に入ろうと決意するに至りました。

半年ほどの詰め込み勉強の末かろうじて大学に入学した僕は、最初の二年間で総合大学の面倒臭さい体質に愕然としました。僕は最初から大学で学びたいことを自分で決めて、空想・妄想にかけたい時間をわざわざ削り、イヤな勉強をして大学に入った訳ですから、それ以上システムの都合に合わせて「時間を使わされる」生活を続ける気はなかったのです。それがまだしばらく続くのかと思うと、ガックリしました。

とは言え大学に入ったことで様々な発見や衝撃はありました。人類学や宗教学、哲学や倫理学・心理学など、幾つかの興味深い授業を受けることは出来ましたし、3回生以降に入った社会学のゼミでは、比較的自由に自分の研究をすることが出来ました(その頃の研究に関しては長くなるので、ここでは触れませんが)。

しかし何よりも中高と男子校で生活を送っていた僕にとって、大学に入って直面した女性たちの思考や行動・コミュニケーションの仕方は、極めて衝撃的で、まさに異文化コミュニケーションでした。最初は自分にとって謎だらけだったものの、卒業の頃になるとむしろ自分は女性的な思考様式の方が理解しやすいのではないか、と気付かされました。それによって自分自身のイメージが大きく変わると同時に、自分の中にもある二極的なエネルギーのようなものを統合していきたいと感じるようになりました。

また、在学中の僕はマンドリン・オーケストラに入り、そこでモダン・フルートを演奏していたのですが、将来の映画制作のために(脚本監督はもとより、音楽や衣装デザインまでを自分一人でやるつもりでいたので)様々な音楽を今のうちに経験しておこうと考え、クラブ内で有志を募り、南米音楽からヨーロッパ各地の音楽、オリジナル曲までを演奏するアマチュア・ユニットを結成し、演奏し始めていました。

当時はまだ「大学を卒業したら出来るだけ様々な職業でアルバイトをしながら見聞を拡げ、30代に入った辺りで例の映画の具現化にかかろう」と企んでいましたが、音楽活動をするうちに次第に音楽そのものにのめり込んでしまい、就職活動もせずに卒業した後はアルバイト生活の一環のようにして演奏活動や講師活動を始めていたのですが、いつの間にかそれがそのまま本業となってしまいました。

実は大学院に進むことも考えていたのですが、相談した教授から「普段どんなことを考えてるの?」と尋ねられ、日頃考えていることをアレコレ話したところ「あなたみたいに表現系の人は、大学みたいなシステムの中にいたら苦労するから、やめといた方がいいのでは」と止められました。今思えば、確かにそうだったのかも知れません。

思い返してみれば、僕は絵描きや専業の著述家、専業のデザイナーや映画製作者、もしくは学者などになっていたら、早い段階で体を壊していたように思います。性格的に、そういった事には「根を詰めてしまい、寝食を忘れてエネルギーを注ぎ続けてしまう」方だからです。要は、こだわって没頭しすぎるんですね。

③社会人になった後

大学卒業後に演奏活動や講師活動を始めていた僕は、1991年に初めて南米に渡りました。そこで幸運なことに、伝統的な音楽を復興している演奏家たちに出会うことが出来たのですが、そこから次第に日本での音楽活動や音楽家の生き方そのものについて、様々な疑問を感じるようになっていました。

当初僕は南米音楽で音楽活動を始めていましたが、日本で紹介されてきた南米音楽はその大半が外国向け・都市生活者向けに商業化されてきた音楽で(もちろんそれらがいいとか悪いとかいう話ではなく、当然良いものもあればそうでもないものもある訳ですが)、商品化された音楽文化が「元の音楽文化」であるかのように多くの人々が勘違いしてしまうと、そこでは思わぬ現象も引き起こされて来る訳です。

たとえば商品化するためには、持ち運びを良くし、並べて陳列しやすく、そして買いやすいもの・分かりやすいものに変換する必要が生じてきますから、人間は自覚なく、音楽を「何らか得るための道具」のようにしていってしまうものです。

演奏スタイルのステレオタイプ化や演奏技術の画一化、楽器の近代的改造(グローバル化)や、音楽と周辺文化の乖離によるリズムや音程感の喪失、個々の音楽の持つ意味の喪失、個人の権利主張による民謡自体の喪失、地域性の喪失など…「洗練されてゆく」という進歩的イメージの裏で、様々な事が起こってきます。それは近代という、一つの病から生み出されているのかも知れない。

南米音楽だけでなく、「それが生まれた場所から遠いところで人々に知られるようになった文化」には、必ず付きまとう影のようなもの…とも言えますが、商業化は必ず「暗黙のマニュアル」のようなものを社会に生み落とし、多くの人間(ミュージシャンや業界人・業界周辺人)をその中に絡めとって行きます。

何かを失いつつある時、人間や社会は「失っているということ自体」に気付けないものです。僕は子供の頃から世界各地の音楽文化に興味を持ってきましたから、同様の問題が様々な地域で生じてきたことを知っていました。「食べていかなくちゃいけないから」という常套句で、我も我もと思考停止していくのは切ないことですね。

そんなことを考えながら、せめて自分自身の活動はそのような状況に一石を投じるやり方にしたい、と思うようになりました。既に開講していた教室では、レコードやCDでよく知られている有名曲などより「実際の暮らしに近いところで、現地の人々が愛着を持ってきた音楽」を中心に紹介するスタイルを模索しています。

どの音楽ジャンルにも、マニアと呼ばれる人々が多くいて、その人々が一定のマーケットを形成してはいるのですが…僕は教室を「マニアのたまり場」のようにはしたくなかったし(そういう場所になってしまうと、そうではない人は近寄り難いですから)、そういう音楽についてあまり知識のない人も気軽に参加できる場にしたかったのです。

また、自分が不器用だと思い込んでいるような人、これまで楽器をやることに抵抗を感じてきた人、ただ何かの形で音楽を体験してみたいというシンプルな気持ちで笛を手にしたような人たちの、受け皿として機能し得る教室をやりたいと考えてきました。世の中には南米音楽マニアのための場や教室は既に幾つもありましたし、そうでない人が体験できる場も必要なんじゃないかと思っていたからです。

その一方で自分の演奏活動に関しては、特定のジャンルに立たず、作曲作品をメインにした活動スタイルにしようと考えるようになっていました。自分の音楽と言えるものは何かと考えた時に、(それによって仕事をしていくなら)そのようなスタイルでやっていくことが、最も自然で素直なんじゃないか、と思えたからです。

よく、オリジナル作品による演奏をメインにしているというと、自分の作曲作品に思い入れがあるのだろう、と思われやすいんですが、僕の場合は逆でした。自分が学んできた音楽に対するこだわりが強かったから、そうしてきたとも言えます。また、僕の関心は広範囲に拡がりやすいので、特定のジャンルの看板を掲げることには、実際無理もありました。


ところが当時は今よりも世間に流れている情報は少なく、またその情報にも偏りがありましたから、教室にしてもステージにしても、一般の人々にとって分かりやすい看板を上げておかないと、現実問題として仕事もお客さんも来ない状況がありました。ステレオタイプなものにしておかないと、仕事としては成り立たない。一般の方々が知らないような現地の曲を紹介したり演奏したりするような活動には、予想以上に困難がつきまとっていました。

音楽を単純にサービス業と捉えている人は世の中に多いですから、世の中の人が求めているイメージを満たそうとする活動や、知っている曲や有名曲を提供・供給する活動でないと、仕事として成り立ちにくいのは当然ですね(海外では逆に「新しい出会い」が求められることの方が多いし、知らない音楽を演奏する方が喜ばれましたが)。

またメディアや業界の空気や人間にイマイチ馴染めないでいた僕は、コネクションを作る気にもなれず(僕は音楽業界や著作権のあり方に少なからず疑問を抱いている方でしたから)、作曲作品で演奏活動していくにしても、これまた厄介な壁がありました。たとえば放送業界からは、著作権協会に登録していないだけで敬遠されてしまいますから。

まぁこだわりや疑問が強過ぎる故の、自業自得とも言えるでしょう。

とは言え、この頃の僕は(様々な試行錯誤の中にはいたものの)今よりもずっと精力的に活動していました。打楽器と笛のみによる完全即興音楽のコンサートをしたのもこの頃ですし(いにしえの音世界と銘打った、半ばシャーマニスティックな内容のものでしたが)、解説を全く入れずに伝承音楽を次々に演奏する、というようなコンサートも行っていました。

ただこういったコンサート活動は、当時はまだ時期尚早だったと思います。今ならネットがありますので、こういった内容にも興味のある人や関心を持つ人・理解できる人はつながりやすいように思います。しかし当時はフツーのコンサートだと思って来る人が大半で、そういった内容にはついてこれる人も少なかったように思います。

そんな実験的な活動もしながら、一方では各地で行政関係のホールコンサートを積極的に引き受けていました。とは言え、ホールコンサートでありながら演奏曲の大半は一般の方が全く知らないものでしたから…よくこの時代、それで演奏依頼が途切れず続いていたものだと思います。

そういった活動の一方で、自分自身のオリジナル作品をメインにした活動を軌道に乗せようともしていました。しかしこの頃はまだ録音物を作る気にもなれなくて、オリジナル作品もコンサートでしか演奏していませんでした。それでよく依頼が来たものです。正直どのようにしてこの時期を乗り切っていたのか、覚えていません。

大阪国際室内楽フェスタに、自製作の楽器を使ったアンサンブルで、しかもオリジナル作品のみによる演奏という内容で唯一、ノミネートを受けて出演したことがあるのですが…出演を通してこういった催しの趣旨や運営に少なからず疑問を感じてしまい、それ以降はそういった催しにも出なくなってしまいました。

本当は、変なこだわりを捨て、社会状況をどんどん受け入れ、応援してくれる人がいればどんどん受け、前に進むべき年齢だったのかも知れませんが、どういう訳かそういったことが全て、自分自身の探求とは逆走しているような感があり、自分らしく行動しようとすればするほど、世間と逆走気味になっていくのが自分でも分かっていました。

ところで僕は、composeという言葉と作曲という言葉の、意味の違いについてよく考えます。日本語で作曲家と言うと「曲の旋律を生み出す人」というイメージがあるのですが、実際にはcomposerは構成者というニュアンスもあるので「元々ある旋律を使って、新たに構成し、そこに自分の名を冠して、自分の作品にする」という側面もありますね。

だから、名もない人や誰だかわからない人が生み出した旋律を持ってきて、それを使って構成し直して形式や体裁を加え、整えて作品化した人が、その曲のcomposerと名乗っていたりもします。実質的には編曲やアレンジの方が妥当かも知れません。もちろん英語なら仕事内容が分かるからいいけど、これを日本語で「作曲者」と言ってしまうと、大概の人は「そのメロディを生み出した人」と捉えてしまう。場合によっては、名もない人々の創造の、搾取も成り立ってしまいます。

僕はクラシックも好きですし、好きな作曲家もいるのですが…そんな風に作曲やcomposeという言葉が使われている状況を考えてみると、僕自身は「composerや、作曲する人」というよりも、「旋律を生み出す人」…もっと言えば「名前が見えてこない、市井の人々の創造性」にずっと関心を持ってきたんだな、ということに気付かされます。

だから、世界各地の民謡や古い音楽に心惹かれるんでしょう。

また、現在の日本における器楽音楽はどこか「(歌的発想ではなく)器物的な発想」で作られているものが多く、特に最近の音楽は歌でも笛の音楽でも、鍵盤楽器的な発想で作られたものが主流になっているように思います。もちろん良いものも沢山ありますが…和声や音の動きにばかり気が向いたものや、左脳的につくられたものが増えて来ているようにも感じています。

現代の社会では、そういうものほど芸術的で、玄人的と捉える人が多いようにも思います。もちろんそれが間違っているとは思いませんし、良いものもあることは分かった上ですが…僕はどうしても、そういったものに「言いたいことがまとまってないのに演台に立つべくして、それらしく整えられた言説」のような印象を感じてしまう事が多いのです。

逆に、民謡や抒情歌のようなシンプルで覚えやすい旋律の方に僕は美や知性を感じることが多く、自分自身もそういった音楽を作りたいと考えてきました。饒舌な弁論や分厚い私小説のような音楽ではなく、短歌や俳句のような引き算を極めたものに美しい精神を感じるんです。そういう旋律は、覚えやすく、耳に残りやすい。つまり多くの人が手に取りやすい形になるまで、削ぎ落されている…そのような形を生み出そうとする(そこまで削ぎ落として捨てていく)人の、人生哲学のようなものが僕は好きなのだと思います。

表現技術に関しても、都市的で近代・現代的なものよりも、世界各地で古くから受け継がれてきたような、独特で荒削りな演奏技術に心惹かれてきました。それらはよくある、教本のトレーニング的なメソッドで培われるような類のものではなく、それぞれの場で特有のやり方で、そして暮らしの必然性の内で、構築されてきたもの。だからこそ、個性を出そうとしている訳ではないのに、それぞれが個性的だし、他の楽器のメソッドの転用が利かない故に、近代クラシック的なメソッドとは別方向の趣向も持ち得ています。近代以前が生き残っている、とも言えます。

「自由な表現」と「自由をアピールする表現」は異なりますが、都市的で現代的な奏法は(実は古くからある技術の転用が大半なんですが)、同じような価値観や精神状態にある人々に対しては、自由を感じさせ、驚きを提供し得るかも知れない。でも、そういう狭い世界の寓話にも見えてしまう。僕たちはその寓話の中に生きているので、それはむしろ、その寓話の中での価値に立脚する方が良いのかも知れませんが…僕は、そういうのにあまりドキドキ出来ないタイプなんでしょう。

僕があちらこちらの古い音楽を、そのままやりたくなるのは、そこで形を成している「必然的な技術」を通して、何か洗練する気もなく洗練されてきてしまったような…美味しいものを作ろうなんて思惑を持たないまま、人目につかず発酵を重ねてきたような、そんな時を集積を感じさせるパワーに、直接「タッチしたい」からなのかも知れません。


さて、1990年代中頃だったと思いますが、僕は以前から興味を持っていたヨーロッパの古楽やケルト文化圏の音楽にも取り組むようになりました。特にアイルランド音楽に関しては、それをメインにした演奏活動も行なっていましたから、90年代後半に出会った人の中には僕のことをアイリッシュ音楽の演奏家と思っている方もおられます。

それらの音楽は僕にとって、(もちろん実際に歴史的経緯の中でも)南米音楽と関係があるものだったのですが、そういう活動によって「南米音楽をやめた」と勘違いされたりもしていました。

もちろん、新しいものに取り組むときは、以前からやっていたものが一時的にストップすることもあるし、一時的に以前からやっていたものが下手になってしまうこともります。何事も(本格的にやるなら)並走させるには工夫が要りますね。

それはさておき、この頃の僕は最も精神的に「さまよっていた」時期でした。考えていることや目指していることは明確なのに、世間との兼ね合いは難しく、生計は成り立ちにくい。最も得意なもので世の中に出て、更に仕事を拡げていくべき年齢だったのかも知れませんが、そういうことに何か虚しさも感じていました。

一方で好奇心は暴走気味になっており、新しいことを経験したいというエネルギーは高まっていました。この頃のさまよい具合が、今の自分を支えてくれているような気もしますが。

全楽器をオリジナル製作する楽団に参加し、楽器製作やデザインなどに協力しつつ楽曲提供を行っていたのも、この頃です。90年代後半には以前から興味を抱いていたチベット音楽などもやり始め、作詞作曲作品や日本のわらべうたをアレンジした作品を扱うユニットでの活動も各地で行うようになっていました。

そんな中、2000年にオーストリア・ブルゲンラント州のクロアチア人の村オスリップに一ヶ月滞在し、フィールドワークと公演を行う機会がありました。小学生の頃に気に入って片言で歌っていた歌が、この村で歌われていることを知った時にはとても驚きましたが、ある意味全ての経験や出来事は精妙につながっていると明確に分かった経験でした。

その滞在中、僕はスロバキアの楽器製作家コブリチェク氏と出会い、巨大笛フヤラを手にすることになりました。それ以来ユーラシア大陸における羊飼いの文化に関心が深まっています(笛の文化は羊飼い文化と強くつながっているので)。

その後2003年には、かねてから縁のあったウズベキスタン・サマルカンドで催される東洋音楽祭に招聘され、様々な国の音楽家と交流を行ないました。中央アジアや西アジア地域の国々の文化と日本の文化の、歴史的・文化的な結びつきを改めて確認し、この経験が以後の音楽制作に大きな影響をもたらしたように思います。滞在中、色んな国の人と踊りまくっていたので、ダンサーと間違われたりしていましたが…。

ところで、この頃までの僕は頑なに自らの録音物(CD=商品)を作っていませんでした。しかし2000年頃から次第に心境の変化もあり、ずっと舞台の上で演奏するのみであったオリジナル作品の数々を、ようやくレコーディングすることを決意、2004年に最初の作品集「ハルノヒ」を、当時の自身のレーベルAyni Recordsから発表しました。

また、中学生の頃から聴き親しんでいた東欧や中欧の音楽文化への関心が同じ頃に高まり始め、2004年秋にはルーマニア・ハンガリーへ渡航、その際幸運なことにティリンカやカヴァルなどの羊飼い由来の笛に出会うことが出来ました。その後2006年には一念発起してギリシャの弦楽器ブズーキを入手、2004年に同行したバイオリン奏者熊澤洋子さんの東欧音楽ユニットに、弦楽器とアレンジで参加するようになりました。

このユニットでのレコーディングを控え、2008年までの2年間は弦楽器の修練に精を出しましたが、同時にそれまで情報の少なかった東欧・中欧の笛文化についてようやく本腰を入れて調べ始め、そういった笛も少しづつですが舞台で演奏するようになりました。

このような新しい経験と並行して、2006年には二枚目になるオリジナル作品集「ホシノウエデ」と、歌の作品を含むユ二ット却来花(キャクライカ)のアルバム「ヒライタ、ヒライタ」を発表しています。アルバムの内容は、その時の僕にとっては過去のものでしたので、過去と現在の新しい体験が並行する、自分にとっても興味深い時期となりました。

僕は音楽活動を始めた頃から、ミュージシャンらしく振る舞おうとする人に何故か一種の格好悪さのようなものを感じてきました。世間の人が抱くようなイメージに自分を当てはめようとすることに、個人の在り方や自己の脆弱さのようなものを(裏返しとして)感じていたからです。

活動を始めた当初は、出来るだけフツーに見える服装でいることが多かったし、髪も今のように長く伸ばしたりはしていませんでした。つまり意識的に「何をやってる人間なのか分からない」ようにしていた、とも言えるかも知れません。音楽家・芸術家「であるかのように」扱われることに、いつも抵抗がありました。

「これが自分なんだ」とばかりに、自分の名前を冠した商品(CDなど)をいそいそと作るミュージシャンの「ならわし」のようなものにも、心のどこかで格好悪さを感じていました。もちろん、他の人が様々な想いで録音物を作っていることも知っているし、それらを聞いて楽しむ自分もいるのですが…自分がやるとなると、どういう訳か抵抗があったのです。もちろん当時は自分の演奏内容に、今以上に満足できていなかったことも大きな理由だったとは思いますが。

しかし2004年2006年に録音物を出してから、僕の周りには大きな変化がありました。「あなたが何をやってるのか、ようやく理解できた」という人が、(両親を含め、教室の受講生の方々や、日頃のお客さんたちに至るまで)沢山いたのです。つまりそれまでの僕は、大方の人にとって本当に謎の人だったということになるんでしょうか。

この時僕はようやく、音楽を録音物という形・商品という形にすることにもそれなりの意味があるんだ、と思えるようになりました。自分は色んな録音物を聞いて音楽の世界に入ったくせに、変な話です。考えてみれば、「これが自分です」と示せる録音物もないまま、よくも15年もの長きにわたって、この時まで音楽家として生きながらえて来れたものだと思います。

2008年に前述の熊澤洋子ユニットのレコーディングに参加しましたが、この時から僕は自分のメインである笛…その中でも特にメインであったケナ(ケーナ)を一切持たず、仕事を受け、出かけていくようになりました。経歴二年程の慣れきってはいない楽器を手に舞台に上がり「人前に立つ経験を重ねることで、瓢箪から駒と言いますか…僕は得難い精神修養の機会を得ることになりました。

当然、笛で出来るレベルのことを、経験の少ない弦楽器では全く出来ない訳ですから、云わばいつも初心者のような気持ちで、そして極めて未完成な人間として、半人前のプロとして人前に出、舞台に上がる訳です。

もとより「これが自分なのだ」という、自分を他者に示そうとするマインドが、最も厄介な精神の罠で、人間の成熟を阻む甘い毒のようなものだと僕は考えてきましたが、期せずして「これが自分なのだ」と胸を張れない状態で人前に出続けたことにより、(悩みや葛藤がなかった訳ではありませんが)、思わぬ精神的な気付きや体感を得ることが出来たという訳です。

目の前の人に、僕は「知られる必要はない」し「知ってもらう必要もない」。もちろん、理解される必要もないし、理解してもらう必要もない。でも僕が人に対して出来ることは沢山あるし、目の前の人が僕を知ることに意味もある。

今でも基本的に僕はそう思って、人に会ったり人前に立ったりしています。人と話すのは好きなので、色々喋ったりして、結果的に関心を持って頂くことも多いのですが。

さて、その年から京都の岩倉に居を移した僕は、2009年に突如止むに止まれぬ衝動が湧き「10代の頃から考えたり人に話したりしていたことを、今本にして出版しなくては」と思い立ち、CDと一緒にエッセイを作品にすることを計画し始めました。

初夏から一ヶ月半ほどの間に湧いてきた、アルバム5枚分位にもなる曲の中から、特に内省的なテーマの作品をセレクトし、知人の山小屋でレコーディングしながら、その一方で編集作業とデザインを独学、それから4年以上の歳月をかけて文章を組み直し校正した後に、2013年暮れにようやく書籍+CDの作品「空のささやき、鳥のうた」を完成させました。

「もう遺書や遺作とするような覚悟のものしか、作りたくない」と決めて形にした作品でしたが、何のコネクションも築かないまま制作してしまったので、完成はしたものの扱ってくれる先が全く見つからず、自宅の居間には行く宛のない本の段ボール箱が山積みになってしまいました。

そうなって初めて、自分は世間の状況や他者の反応・評価を想定せずに、ただ表現するということにスイッチが入ってしまうタイプなのだと気付かされました。

客観的に言うと、メディア的に無名の人間が謎の作品を作って出しても、置ける場所もなければ、手に取る人も開いてくれる人も少ないのが当たり前ですね。何よりも世間の人々の活字離れは僕の予想以上でしたし、手には取ってくれても、大抵の人は全てを読んではくれません。極めて少数の読破してくれた人々が、熱烈な感想を送ってはくれましたが、世の中からの反応・反響は予想以上に無く、この時初めて自分の度を過ぎた無計画さと、自分と世間(業界も含め)との乖離を悟りました。

以後、アルバムも書籍もしばらく製作しないことにしたのですが(お金もかかってしまうので)、制作に明け暮れて世間から離れに離れた4年間は、自分の考えをまとめるには良い歳月でした。

その間もちろん、演奏活動が完全にストップしていた訳ではなく、2013年には国際交流基金のプログラムでスロバキアへの招聘を受け、2000年に出会っていたコブリチェク氏や中欧の笛文化との再会を果たしています。この時同時にスロバキア・ブラティスラヴァでの伝統文化保全に対する取り組みに大きな感銘を受け、その後自分が地域社会のプロジェクトを企画していく上での大きな示唆を得ました。

またチャンゴー・マジャールの音楽文化に傾倒し始めたのもこの頃で、2004年に出会っていたモルダヴィア・スタイルのカヴァルにもようやくこの頃になって本格的に取り組み始めました。何事もタイミングというものがあり、思わぬ時にそれは訪れたりするものですね。新しいことを始め、その都度自分が「白紙に戻る」経験が、自分を何度も幼少期の感覚に誘ってくれます。

時は限りがなく、その間に生じている時間は云わば幻想だということ…全ての経験は其々がつながっており、また個々の人間の内で再びつなげられるのを待っているということ…世の中に会うべき人々は沢山おり、自分の経験がその出会いを導くということ…引き出されるのを待っているものが自分自身の中にはまだ沢山あるということ…社会という一種の思い込みの渦中に身を置いて、そこに更に新たな思い込みを加えるような生き方は必要ないということ…まだまだ自分にも世の中にも、紐解きたい秘密がいっぱいあるということ。

作曲家・映像作家・ピアノ奏者の高木正勝氏のステージに、弦楽器と笛で参加し始めたのもこの頃で、大阪大学で笛を使った授業(実践的文化交流論)をやり始めたのもこの頃です。音楽家であるとか、笛演奏家であるとか、そういったラベルがなくとも、出会った瞬間からの関わりで、生き様(よう)が自然に開けてくるような…そういうもんじゃないかなぁと思うようになっていました。

④近年

「空のささやき、鳥のうた」を完成させた一年後の2014年の暮れ、幾つもの不思議な縁が動いて、僕は現在住んでいる京北に移住しました。高まっていた自然への想いはこの頃から一層強くなり、音楽もよりプリミティブな響きのものや、原初的でシンプルな旋律に心惹かれるようになりました。

自分の好みが歳を重ねるごとに世間の趣向と乖離していくことに、いささか危機感も覚えてはいましたが(笑)、太陽の下で畑や家や土地の整備に精を出すことに時間の大半を使う生活を送るようになって、自分が何を求め、何に心惹かれ、何にこだわってきたのか、そういうことが改めて見えてきたようにも思います。

「ついに田舎に引っ込んだか」「隠居したのか」と一部では囁かれもしましたが(^^;…どういう訳か、この地に来てからかえって人に出会う機会は以前よりも増え、出かけることも増えていきました。同じ頃から両親のケアなども始まっていたので、家族について考えたり、地域に根ざす生き方やその価値観について考えることも増えました。僕が心惹かれ続けてきた音楽文化や芸術作品は、地に根付き、精神が着地した人々から生まれたものでしたから、このような暮らしは僕にとって必然だったのかも知れません。

以前から知り合っていた冒険家・意識研究家のエハン・デラヴィ氏と再会し、文化をテーマに京都や軽井沢で講演・対談を一緒に行うようになったのもこの頃です。

それまで大学以外での講演の仕事は、音楽や文化に関わることが基本でしたが、社会生活や意識変革・思考法などについて、僕のこれまでの経験や知識が多くの方に役立つこともあるとこの時初めて知り、以後そういった「話す機会」を積極的に引き受けるようになりました。

また移住後の2015年には、地域に住む友人たちと一緒に「京北村民歌舞プロジェクト」という、ゆるい遊びのプロジェクトをスタートさせています。このプロジェクトは「家庭料理を作るくらいの感覚で、普通に暮らす人々が音楽や踊りを自分たちで作ったり、お互いの作ったものを楽しみ合えるような、そんな社会を創造したい」という趣旨のもの。

僕がFB等で時折紹介している、冬至祭・夏至祭は、このプロジェクトの企画です。

食文化と音楽文化はとても関係性が深く、たとえば食品が農薬と添加物まみれになり、インスタント食品が増え、コンビニが乱立し、大量生産・大量廃棄になった社会では、音楽文化・音楽業界も大概そうなっています。食文化に関する危機は、音楽文化に関しる危機よりも早くに認識されますから、食文化に関する問題を見ることで、音楽文化の置かれている状況を考えることが出来ます。

今の音楽に関する状況を食文化にたとえて言うなら…今は「外食ばかりで、家庭料理を一切作らなくなった暮らし」のような状況です。買い物をする人間(消費者)に仕立て上げられることによって、多くの人が「作ることが出来なくなっている」。そのことに、その人々自身が気付いていない状況なんです。作ることは、才能や能力の問題だと思わされています。家庭料理に関しても、そう言えるでしょうか。

食文化に対して危機を感じる人は増えていますし、無添加や無農薬、減農薬や有機栽培のものを求める人や、自分でも農業をする方は増えていますが…そういう人々の中でも、音楽や楽器に関しては依然無頓着な人が大半です。自給自足や有機栽培・無農薬を謳う人でも、ニスや化学物質を塗りたくった工場製品・大量生産品の楽器をついつい平気で買ってしまうし、小さなイヤホンで商業音楽のみを聴き、それらを焼き直したような音楽しか作れなくなっています。

子どもたちは実際の楽器の響きと機械の響きを判別できなくなってきていますし、これはたとえて言うなら、添加物まみれの大量生産食品ばかりを摂取して、舌に味覚破壊が起こってしまったようなものです。

しかし音楽に関しては「耳が良い・才能がある」人だけが、そういうことを判別できるのであって、そういった特殊な人々だけがこだわるだけだとか、他の大多数の人間にとってはあまり関係ないことだと、多くの人々が信じ込んでいます。そのように思い込まされてきた、とも言えますが。

そういった状況や、これまでの経緯について考えた時、僕たちのような音楽に関わってきた人間が、やれることや、むしろやっていかなくてはならないこともあるんじゃないかな、と長年考えてきました。もっと原点から、もっと清々しく、共有できる「音楽的体験」というものがあると思うのです。

つまり僕は、長年いわゆる民族音楽と呼ばれる音楽に関わってきたのですが(僕は普段、民族音楽という名称をあまり使わないようにはしていますが)、それを通して学んだことを、今ある人間関係・社会関係に活かすことを模索する中で、ただ珍しい楽器や素朴な楽器をどこかからか持ってきて、それに触れてもらうというようなレベルの「体験」を提供するだけではなくて、「地域に根付いた音楽文化・芸能文化を、地域に根ざして暮らす人々と一緒に一から生み出す・創り出す」というところに(つまり共同創造作業に)行き着きたい、と考えるようになっていました。そこでこの「一から音楽文化を創造する」計画をスタートさせた訳です。

とは言え、こういうものは時間をかけてじわじわ成されてゆくものですし、一部の人間だけがあれこれ作って提供する形にしてしまっても、それでは方向性が変わってしまいます。気軽に気楽に遊びながら年月を重ねて創造されてゆくものがいい。そう考えて、音楽の原点を体験できる場として、冬至祭・夏至祭が企画されました。

今の時代は、祭りというものが集客や経済効果・外部の反響ばかりを意識して、全てを売り物とサービスにしてしまう発想に陥っていますから、この冬至祭・夏至祭では原点に立ち返り、外から人を集めない、地域で閉じた催しとなっています。云わば、地元民同士のデートであり、外から入れないホームパーティーですね。そんな感じで2015年から、大人が本気であそぶ機会として田舎でひっそりと活動を続けています。

このような活動を通して、近年の僕は音楽関係者でもなく業界人でもない人々と、様々な試みをしていくことが多くなっています。これまでどちらかと言うと、何でも自分一人から行動を起こすタイプでしたし、安易に群れないことを一つのモットーにしていた位なのですが…この歳になってようやくと言いますか、様々な人々と一緒に何かを作り上げていくことの意味や価値に改めて気付かされています。

さて、およそ5年近く国外に出ていなかった僕でしたが、以前より親交のあったルーマニア人ダニエル氏との縁で2018年夏にはルーマニア・トランシルヴァニア地方を訪れました。各地のワイナリーを巡り、様々な方々の前でルーマニアの古い音楽を演奏したのですが、この旅を通じて「音楽は人間だけから生まれ出ている訳ではない」ということを再確認しました。

音楽も人間も、それが息づいている空間・環境を(意識せずとも)「まとっている」ものですね。実は「それごと動いている」と言っても良いかも知れません。そういった匂いや香りのようなものには元々敏感な方ではありましたが、年齢を重ねるごとに、その匂いや香りに対する感覚が自分の中では強くなってきたような気がします。都市に暮らす音楽家からは、都市文明の匂いがする。

その後ルーマニアから、これも以前からご縁のあった国際詩人ジャーメイン氏による招聘で、スペイン・アルテアを訪れました。数ヶ国語の現代詩と音楽の公演に出演、多くの人々と交流しながら、表現行動を続ける人間が共通して持ち得ている一種の「キュートさ・したたかさ」、其々がそれぞれの土地で不断の活動を続けることの意味を改めて知りました。

僕は昔からミュージシャンよりも、他ジャンルの職人や芸術家などに友人が多かったのですが、異なる手段や方法を持つ表現者に出会うのは大好きです。時には音楽家よりも、音楽の核心に触れる話が出来たりもするから不思議ですね。

その後アルテアから、かねてから関心を持っていたバスク地方を訪れ、伝統音楽復興の足場となった場所を訪ねました。バスクの食文化や都市でのムーブメントは非常に興味深く、ここでも自分が住む地域の様々なプロジェクトに関する示唆を得ることが出来たように思います。

そこから更に、南コーカサス…アルメニアとジョージアへ。この2018年の旅は、その年の春に父を見送った僕にとって、大きな転機となる旅になりました。

僕は20代はじめに、アルバイト先で映画「コミタス」のビデオを目にしてアルメニアのことを知り、その後CDなどでアルメニア音楽を聞くようにはなっていたのですが、それから随分と時間が経って、突然2017年の暮れに再びアルメニア音楽に関心が深まるようになっていました。

ずっと前に「布石が打たれていた」ものに、ある時「再会のお知らせ」がやって来る…そして再会した時に「ずっと前に布石が打たれていた」ということに気付かされる…そんなことが、多い気がします。

2018年2月にアルメニアから来日した詩人アルメヌイ・シスヤンと出会い、その後アルメニアの音楽家レヴォン・テヴァンニャンとネットを通じて友人になったことで縁が一気に動き、コーカサスの山々の写真を見るごとに、この地を踏みたい・この空気の中に身を置きたいと感じるようになっていました。招かれていたんでしょうね。

アルメニアでは文化や歴史、そして音楽に関して様々なことを気付かされ、ジョージアではその自然から、多くの刺激を与えられました。この旅をきっかけに(2018年から少しづつ取り組んではいたのですが)アルメニアのシュヴィという笛や、前述のレヴォンを通じて入手したブルールといった笛を本格的に練習するようになりました。

※この経緯については、2023年9月に発売のコーカサス地方についての合同誌‐友‐TOMOに詳細を執筆しています

ルーマニア・スペイン・アルメニア・ジョージアの旅から帰った2018年秋には、およそ26年ぶりにケーナ・南米音楽をメインにしたライブを東京で開催し、また北海道では高木正勝氏の舞台で共演した阿寒湖のアイヌ音楽姉妹ユニットとの再会・共演も果たしました。これらが期せずして自分の音楽スタイルを更に見つめ直す機会となり、この数年で起こってきたことが改めて自分の中でつながったのかも知れません。

移住を含めて、この数年で経験した新しいことの数々、また2018年の頭に父を見送ったこと、東欧やコーカサス各地へ旅をしたことなどが連なり、自分の中で大きな心境的変化もありました。

そこで僕自身のHPも、長年使っていた旧ページを一旦閉じて、この新しいページに移行することにしたのです(2019年春分の日より)。

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⑤これから

回数は多くはないですが、南米音楽・東欧音楽・コーカサス音楽・作曲作品などの演奏は開催していく予定です。大阪大学での講義は「共生の技法~ヒトはなぜ、歌い踊るのか」という名称で続けており、講演・対談は「創造性とは何か・しあわせとは何か」等をテーマに、ご依頼に合わせて開催していく予定です。

地元・京北では「踊って旅する世界の国々」という、各地の輪踊り(フォークダンス)を紹介する講習会を、今後も企画していく予定です。

2020年~22年はルーマニア・スペインへの招聘も延期になりましたが、今年以降は情勢によって実現するかも知れません。地元京北のイベント「ツクル森」は変わらず開催しており、2023年は更にグレードアップした企画が目白押しとなりそうです。
 
社会がコロナ騒ぎに明け暮れていた2年間は、世間はほぼ止まっているかのようでしたが…僕自身はある意味、大いに開かれた2年間でもありました。「学校をさぼって新しい楽器の練習を始めた、中学生のような日々」を送っていたので(笑)僕にとっては音楽に関して、リセットされたというか…完全に生まれ変わったような感覚があります。

Facebook(きしもとタローで検索してみて下さい)等でも随時、近況や公演予定などをアップしております。宜しければ覗いてみてください。

…予想よりも少し長かったかも知れませんが、ここまで読んで下さった方には感謝します。飛ばし読みでも、有り難うございます(^^)

僕の人物像にご興味を持って下さった方は、是非何かの機会に会いにいらしてください。


きしもとタロー拝



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